炭を使って調理してみた
インドア派のわが家がアウトドアごはんに目覚める
2019年。野馬追を観たいと大勢の方がやってきた。
自ずと夕食はBBQになったものの、わが家には道具が何一つとしてない。忙しくて手伝ってくれる人もいない。困った僕は、メルカリで取りあえずBBQコンロを買った。
そこから、とりあえず焼肉用のお肉屋や好きを手配して、訪れた人たちに焼肉を用意することにした。
そして当日。
結果、無事に食事は終了した……が、大量の福島牛のお肉が余ってしまった。
網の上からおろした肉や野菜は、その瞬間から食べ物としての価値が下がり始める。しかも、一気に。
しかし、唯一あっという間に食べ尽くした食材があった。それは、豚肩ロースを低温調理した塊肉。
薄暗い中で、芯まですでに火が入っているお肉は、表面のローストだけで食べられる。さらに、塊肉は網からおろしても価値は下がらず、むしろ切り分けるワクワク感に期待が高まる。
低温調理の日々
そこから、コロナの間はひたすらに塊肉の日々。季節や気温に応じて、調理時間や温度の具合についてひたすら経験を重ねる。そしてなにより、食べるシーンに応じた塩味。お酒を飲むのか、汗をいているのか、などを念頭に置いて微妙に塩分濃度をコントロールすると、より美味しく食べられることがだんだんわかってきた。
そして、ふと思い立つ
「焼くこと」について、実はほとんど知らないのではないかということに気づいた。
もちろん、低温調理を経て、適度に芯を温めつつ、最後に表面に焼き色をつけるとか、肉汁や油であがる煙でスモークするくらいは体験的に学んだ。でも、もっと解像度上がるはずだよなと思い調べてみると、世の中に流通するこの手の本は数冊くらいしかないことが判明。
(おそらく昔の料理本はすごく詳しいものがあるので、古本や図書館もあたらないといけないが、まずは現在流通する本)
こうやって読んでみると、炭を使った火入れに関する理解の深さは圧倒的に日本料理の本が参考になることがわかった。(海外のおしゃれBBQも参考になるけれど、レシピと仕上がりの写真があるだけで、調理過程に関して深い記述はなかった)
ということで、ミシュランで星がつく銀座小十の奥田透さんの『焼く』を下敷きに、練習を始めることにした。
海は身から、川は皮から?
海の魚は身から焼く。皮の魚は皮から焼く。
今となっては、こんなに解像度の低い基本方針ですべて対処できると思っていたことが不思議である。
とういことで、読み進めると焼きの奥深さがわかってくる。さながら、井庭先生のパターン・ランゲージの世界である。世の中にはTipsとPolicyみたなものは溢れているが、その中間の解像度が不足している。Tipsばかり身につけても応用がきかないし、Policyだけだと今回の「海は身から」問題にようになる。
つまるところは、油分と水分
わかってきたことは、魚の身の大きさがどれくらいのサイズに取れるか。さらに、水分が多い(身が厚い)かや、油分が多いかなどを念頭において、身と皮のどちらを先に火を入れるかや、焼きの温度を調整する。
百聞は一見にしかず
実際に焼いてみた。
まずは宮城県産の太刀魚。まさに目の前の海で上がった魚。
理想的なサイズと比べて2まわりくらい小さいサイズだったので、ただでさえ薄い身が、さらに薄い。そして身幅も狭いので、半身を幅を揃えて串打ちして焼いてみた。
身が薄いので、水分を逃さないように焼くのが難しい。
まずは1回目(左)、炭の火力のコントロールがうまくいかず、温度があがらなかった。焼き目がまんべんなくついたころには、身の水分は失われてしまった。味もしおっからいし、身も繊維質。
一方で、再チャレンジした左。こちらはやや強めの火力。皮にほどこした細かい包丁の切れ目から油が出て、パリッと仕上がっている。中もしっとり。こんなに違いがでるのかとびっくりした。
上記の記事にもあるけれど、身に脂が少ない魚は皮から、と書いてある。真鯛は脂が少ないので、弱めの火で皮に焼き色をつけつつ、次は身に。(しあがりを撮影するのを忘れて美味しく食べてしまった)
2つ目の真鯛の仕上がり。脂が少なく固くなりがちな身が、中はふっくら仕上がっている。ゆっくり火を通すのがポイントらしい。
続いて、鯛にきのこを巻いて焼いてみる。
舞茸は火がしっかり通らずイマイチな結果に(左)。一方、マシュルームは火が通ってジューシーな仕上がり(右)。
わかりにくいけれども、左の方が身が大ぶりで火に近く、強い火力であぶられたために焼き色の割に中心温度が上がらなかった模様。左は火からちょっとだけ離れたために、中心まで熱が入った。この違いは、認識可能な違いだけれど、気づくのは大変。職人のノウハウすごい。
せっかくなので、最後にスーパーで安くなっていたアメリカ産牛の肩ロース。いちばん厚めのものを買ってきました。グラム200円ちょっとで1400円。半分にして焼いてみる。
中火程度の火力でしっかりと焼き色をつける。
厚みがあるので、アルミホイルに包んで5分ほど休ませる。
子どもと一緒に食べるのにも安心なくらいには、芯まで火が入りました。
おまけ
せっかく炭を起こしたので、国産の鶏のボンジリとセセリも。焼き鳥は火入れが楽で食べ頃の判断もしやすいですね。どちらかというと、本数が増えたときに個別のお肉の状況見ながらひっくり返すのと、繰り返し焼き続けるために炭のコンディションを保つのが大変そう。
まとめ
焼きに関する解像度が一気に上がってきた。
うまくいったりいかなかったりするので、
- 炭火のコントロール
- 焼き加減の判断の精度
- 食材の脂と水分に応じた焼き方の判断
みたいなところが養われると、上手になるんだろうと思う。
ということで2日目は福島の海であがった旬のアナゴ。さらにはメダイやエビにもチャレンジしてみます。
相馬野馬追 観戦のすすめ
3年ぶりに有観客開催
新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、相馬野馬追は2年にわたって「御省略野馬追」として縮小開催を余儀なくされました。
今年は、3年ぶりに有観客開催となることが決まりました。南相馬市に緊急事態宣言等が発出されない限り、有観客で対応する方針とのこと。
これまでに被災地を応援してきてくれたみなさんが、野馬追を訪れる企画を用意してくれています。
震災以降、年々野馬追に来てくれる方が増えてきたのですが、今年からは僕が案内しきれないくらいには増えてきましたので、補足のためにブログを書いてみました。
今年の見どころ
相馬家の代替わり
今年の見どころの一つは、総大将を務める相馬家が代替わりをして、第35代の言胤君(ぎみ)が初陣を飾られます。文久4年以来となる、鎧兜の新調もされたとか。
福島第一原発が立地する大熊町で12年ぶりのお行列
ちなみに、今年からは大熊町でお行列が再開されるとのニュースも。
「相馬野馬追」大熊での騎馬行列復活へ 12年ぶり古里凱旋:震災12年目ニュース:福島民友新聞社 みんゆうNet
相馬野馬追のタイムライン
相馬野馬追の観戦の難しさは、相馬藩領にまたがる広域で同時多発的に展開されることにあります。
相馬野馬追に参加する方々は3つの神社に供奉し、5つの騎馬会のいずれかに所属することになります。各郷ごとに出陣式を始めとする公式行事が行われています。詳しい日時や場所が明かされておらず、調べてもなかなかたどり着けないため、観戦するにもノウハウの蓄積が必要です。
そしてなにより、その見どころは、公式行事の裏側にあるのが厄介なところ。
ご出陣される皆さんは自宅で身支度を整え、馬にまたがり出発していきます。
震災を経て、家族や自宅を失いながらも、それぞれの想いや周囲の支えがあって、野馬追が営みとして脈々と続いています。
7月23日(土)
宇多郷 出陣式
野馬追初日。
観戦のおすすめは、総大将を擁する宇多郷の出陣式から。
朝8時過ぎには始まります。
会場はこちら。社務所前が会場になります。
駐車場は相馬市役所や周辺公共施設の駐車場が開放されています。皆さん、二の丸の球場の外野の外を通り抜けて神社へ向かい人が流れていますので、ついていけば迷わず着けると思います。
宇多郷 御発輿
9時過ぎには騎乗の指示が出て、隊列を作り始めます。
9時半にご出発の予定ではありますが、早めに到着して場所を確保しておくことをおすすめします。
この際の注意点を2つ。敷地内にちょっとした築山や盛土した場所がありますが、その上から観覧されていると怒られます。(見下ろしていないし少しくらい大丈夫だろうと思っても、だいたい馬上からどやされています)
2点目は出発の合図となる花火の音で馬が暴れることがあること。過去には馬が立ち上がってしまって放馬してしまい、参道を全速力で駆けて観客に突っ込んでいったことも。馬とぶつかると大怪我になりますので、ご出陣の瞬間だけは気を抜かないようにしてください。
北郷出陣式
初日の見どころ、続いては南相馬市鹿島区に場所を移します。
この日の見どころは、北郷騎馬会のHPにも概要が記載されています。
今年の案内図を貼り付けておきます。
まずは、永田陣屋から。
菅野漬物食品さんの香の蔵を目指していただくと、その北側に臨時の駐車場があります。
総大将お迎え
続いて、北郷本陣。駐車場については、上記の地図を参考に探してください。
総大将のお行列が永田陣屋に入り、その後北郷本陣にご到着となります。北郷と合流し、引き続きお行列が進軍していきます。
正午頃から伝令の御使番が到着して、順次ご到着となります。
その後、13時過ぎに再びお行列が開始されて、鹿島区の市街地を進んでいきます。
引き続き、宵宵乗り競馬(雲雀ケ原)や北郷神旗争奪戦(鹿島区真野川河川敷)、軍者会(旭公園)などが執り行われます。
7月24日(日)
礼螺奉納
24日。本祭の朝は、日が出る前から始まります。
南相馬市の原町区 市街地中心部の旭公園から始まります。
各郷の螺役が揃い、礼螺が街中にとどろきます。
出陣(各参加者宅)
各役柄に応じて、多くの方の出迎えに応じたり、はたまた、訪問をしたりしながら、その日の出陣に備えます。
ちなみに、わが家の40年前の野馬追の様子。玄関先で吹螺を吹いてもらっています。
家の中は、お侍さんでいっぱい。
家の外にもテーブルを設けて、訪れた方へ振る舞い。
ほとんど変わらぬ営みとして続いてきている様子が伺えます。
お行列・甲冑競馬・神旗争奪戦
ここまでくると、多くのみなさんが観戦されている部分は、全体のごくごく一部だったことがわかってくると思います。
みなさんがご覧になられるお行列や甲冑競馬、神旗争奪戦。
それぞれのご家庭に足を運んでみると、全く違った景色に見えているはず。
こちらは当日の交通規制と駐車場になります。
それから、意外と苦労するのが観覧席の座席表。中央の羊腸の坂を挟んで、移動が自由できないので、観覧チケットを確認して南北どちらから入場すればいいかを確認しておくと便利です。
標葉郷 凱旋
今年、ぜひ御覧いただきたいのは、標葉郷の凱旋のお行列。
「相馬野馬追」大熊での騎馬行列復活へ 12年ぶり古里凱旋:震災12年目ニュース:福島民友新聞社 みんゆうNet
場所は大熊町の大川原。7騎がお行列をするそうです。
12年前とは全く異なる景色が広がっており、まさに観るべき野馬追です。
※野馬懸を書く前に力尽きました。元気が溜まったら追記します。
オリンピックの記録映画を鑑賞する
先日、東京オリンピックの記録映画を鑑賞してきた
Side A は予定調和のかたまり。ドキュメンタリーでありながら、ドキュメンタリーを模した"映画"のような作品でした。
構成案をそのまま映像に仕立てたような作品であって、事前リサーチを越えるような映像の力を感じるような場面は殆どありませんでした。
一方の Side B ですが、こちらは想定外のシーンが随所に描かれていました。 Side A でずいぶん期待値が下がっていたので、まさにドキュメンタリーの持つ映像の力を感じるシーンが随所にあって驚きました。
残念だったのは一定の背景知識を持って観なければ、状況を理解することが難しいということ。
その発言がどういった意味を持っているのか、その出来事がどういう状況で起きたことなのか、なぜ決断を下すことが困難だったのか。
記録映画として、内容を理解するのに必要な前提知識が要求されてしまうということは、時間が過ぎて記憶が風化していくと、全く異なる文脈で解釈されていく余地を大きく残すことになるのだろうと思いました。
(例えば、新型コロナウイルスの発生直後の切迫感や危機感は、今でこそまだ生々しいものがありますが、未来でも同じような前提を共有する人が観るとは限らないのだろうなと思います)
東京オリンピックとわが家
オリンピックが東京で開催されることが決まり、とても喜ばしいことだと感じたことを記憶しています。なにしろ、「復興オリンピック」がやってくるのですから。
震災から10年近くが過ぎ、改めて被災地の現状を多くの方に伝えるとともに、これまで多くのご支援をいただいたことに対して感謝を伝える機会に、大きな期待をしていました。
さらにはサーフィンや馬術競技など、地域に根ざした種目の開催地として、この場所に多くの方が訪れていただけるかもしれないことを強く期待していたことを覚えています。 しかし残念ながら現実は異なりました。
復興オリンピックはまさに文字だけのものであり絵に描いた餅だった
大勢の選手や観客を原子力被災地に迎え入れてオリンピックを開催することは、そもそも選択肢にすら入っていませんでした。
そんな形ばかりの「復興五輪」でしたが、唯一感動的だったのは聖火リレー。
感染拡大の真っ只中で開催も危ぶまれましたが、津波被災で家族を失った上野さんが聖火ランナーを務める勇姿を見れたこと、さらには彼の言葉が彼のインタビューが多くのメディアに取り上げられたことに、涙しました。
加えて幸運だったのは、僕ら家族も南相馬市のメーン会場の抽選に当たり、関連イベントを体験したりすることを通じてオリンピック開催の空気に触れることができました。
さらに幸運だったのは、たまたま手にした宮城スタジアムのサッカー女子の予選のチケットがほぼ唯一の有観客開催の競技にあたったことです。
日本代表の試合を現地で観戦することができました。
刻一刻と無観客開催の方向性が固まり、東京は無観客開催に。世論の批判を受けて東京以外の会場も次々と無観客開催に舵をきりました。
そんな中でも、宮城スタジアムだけが有観客の開催となりました。 数少ない現地でオリンピックを観戦できるチケットを手にしているということを知り、僕らが震災支援の感謝を伝える横断幕を用意しないと、誰も感謝を伝えないのでは?と考えるにいたり、バタバタと準備をすることに。
同級生の葬儀屋さんにお願いして在庫で保管している大きな真っ白なテーブルクロスをもらってきて、家族でアクリル絵の具を用いてメッセージを書き綴りました。
内容は皆で考えたものを大学の先輩の通訳とか他に自然な英語に直してもらいました。皆さんの支援のおかげで僕たちはこの場所で暮らし続けていることができていることについて、感謝の思いをつづりました。
驚きだったのは、北海道に赴任していた時に一緒にお仕事をしていた旧知の新聞記者さんが、宮城スタジアムに取材に訪れていたこと。僕らの掲げたメッセージを見つけてもらって取材してくれました。
はたまた、映画に戻って、復興五輪を巡る
東京オリンピックの記録映画 Side A と side B 二つの映画を鑑賞してきました。
なぜなら、東京オリンピックは復興五輪だから。復興した姿と、そして感謝を伝える場だったはず。それがどのように映像に残されたのか、残されなかったのか。せめて僕一人くらいは見届けようと思いました。
SNS などで取り上げられているように、映画館の会場は僕一人。 これまで早朝や深夜の映画館でほとんど客入りがなかったとはよくあることですが、そうは言っても2回立て続けに、昼間に僕しか観客がいない映画館は、ちょっと残念です。
Side A を見て感じたことは極めてよくてきたドキュメンタリー風の映画のように感じられたこと。 それはまさに人手によって作られた人工物のような予定調和。わかりやすい多様性が盛り盛りにされた映像作品でした。例えば難民、例えば出産を経験した女性(出産のために出場を断念した方もいれば家族とともに来日し乳児の世話をしながら通常した方も)さらに沖縄で生まれ育ち沖縄に初めてのメダルをもたらした選手。
前もって手に入る情報の中でまさに多様性がイメージしやすい選手のところにひたすらカメラを入れてつなぎ合わせたそんな作品になっていました。
一方でSide B。こちらは選手ではなく運営サイドにカメラを入れてまとめた作品です。2020年にオリンピック開催を予定していたコロナ前の世界が描かれています。
あの頃にはなかった大きな想定外が起きました。それは開催を1年延期したこと。 無観客開催を決定したこと。 さらには演出チームの解散や、コロナを受けて食事のスタッフや会場のスタッフが困難に立ち向かう姿が描かれています。
これらは事前のリサーチで撮影ができるものとは異なりまさにカメラが未知の世界に足を踏み入れ記録してきた貴重な映像なんだということがひしひしと伝わります。
一方で、まだまだ記憶が生々しいからこそ前提の共有がなくとも映像だけで伝わるものですが、少し先の未来ではおそらくその前提が崩れてしまって理解することが困難になるのだろうなということが容易に想像がつきました。
例えばコロナを巡る感染状況に対するリスク評価(そもそも当初は感染するとかなり高い割合で重症化し、生命の危機に発展する恐ろしい感染症であるという認識を社会が共有していたこと)などは、数年後には忘れ去られてしまっていて、記録映画を観ても、どうしてこんな状況になったのかを理解することは難しくなっているかもしれません。
現時点ですら注意しないとその当時どんな感覚でその状況を捉えていたのかについて錯覚しそうなくらいには記憶が薄れてきています。
記録映画だからこそ、時代の前提を上手に共有してほしいと感じましたし、時制があちこちに飛びながら話が進んでくことも相まって、本当の困難がどこに横たわっていたのかがすごく曖昧な作品だなという風に感じました。
最後に、復興五輪とは…
映画の中で、被災地に触れたのはSide B の富岡高校の関係者たちを取り上げたシーケンスのみ。それはあくまで、五輪出場選手の中には、原子力災害により避難を余儀なくされた人たちがいたということを取り上げた、ただそれだけでした。
復興五輪を掲げたこと、その中で、被災地の犠牲や葛藤、復興に向けて前に進む様子は一切触れることはありませんでした。
東京オリンピックが復興五輪を掲げたこと。それが跡形もなくなかったことになったことについては、どこかに残しておく必要があるのだろう、そんなことを思いました。
ウポポイを訪問して、考えたこと。
先日、ウポポイに行ってきた。
ウポポイとは…「民族共生象徴空間」という、国が設置したアイヌ民族の復興・創造・発展のための拠点。(このあたりのワードが並び始めて、他人事じゃない感じが満載なのは僕だけではないはず)
国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設が立地していて、ウポポイは大勢で歌うことの意から名付けられたとのこと。
アイヌ民族を巡る歴史について少し振り返る
アイヌの歴史を紐解くと、狩猟民族としての暮らしを奪われ、同化政策により文化を奪われ、そして差別されてきた歴史にいきあたる。明治初期から苛烈とも言える同化政策ははじまっており、旧土人保護法の見直しとアイヌ新法の成立にいたるまで、100年近い苦しい時代が続いた。
・二風谷訴訟とアイヌ新法
1980年代にはじまった平取町二風谷のダム建設に関する用地買収。最後まで土地の買収に応じず、萱野茂さんと貝澤正さんは強制収用に対する裁判に。1997年に判決が確定し、アイヌ民族の先住性が認められた一方で、土地の強制収用は違法だとしながらもダムが完成していることからもとに戻すのは公益に反するという結果に。
この裁判が契機となり、旧土人保護法が見直され、アイヌ文化振興法(アイヌ新法)が制定されることとなり、アイヌ民族の先住民族としての位置づけを明確にするとともに、アイヌ文化の保護が国の方針として位置づけられた。
二風谷のアイヌ文化博物館に国費が投じられ拡充するとともに、平取のアイヌ文化伝承の催しも後押しすることに。
僕が北海道に住んでいた3年半
北海道開発局の予算にアイヌ関連予算が計上され、文化保護に関する各種事業が始まり、儀式や料理の材料に必須の植物などの保全活動が始まる様子がたびたびニュースになりはじめた。先住民族との交流を通じた「世界的な先住民族の位置づけ」をどのように日本でも位置づけていくのか、先住民族サミットの開催などの契機も。
https://www.hkd.mlit.go.jp/mr/sarugawa_damu/tn6s9g00000023az-att/16_houkoku_sanko1.pdf
萱野茂さんの訃報
2006年の春の大型連休。5月6日に萱野さんが亡くなった。原稿を書くプロセスで、教科書程度の知識だった僕は彼を知り、偉大さに触れ、平取に足を運んで弔いの様子に立ち会った。(取材者として、アイヌを長らく取材し続けてきた上司のかわりに弔問した)
それでも自分にとってはまだまだ遠い向こうの世界の話であって、どこか他人事だったのだと、今ならわかる。
アイヌは文字を持たない。音がすべて。若かりし日の萱野茂はオープンリールを抱えて村の年寄の民話を録音し、アイヌ語辞典の編纂に取り組んだ。その後もアイヌ新法の成立に尽力し、権利回復や文化の保存に、まさに文字通り人生を捧げた。
訃報の映像にも「民族は言葉。言葉をうしなったとき、民族も失われる」と語る姿が記憶に残っている。
はたまた、ウポポイ
ウポポイ、素晴らしい施設ですごくたくさんの方が足を運んでいて感動した。
なにより、JR北海道の電車にのるとアナウンスの冒頭に「イランカラプテ」とアイヌ語の挨拶からはじまって、隔世の感。
アイヌの歌や演奏に大勢の方が釘付けになっていて、演者の様子はもちろん、シアターを埋める人たちの様子が気になってしかたなかった。
ウポポイがもたらしたもの。
- アイヌ民族の伝統文化の伝承を「仕事」として収入が得られるものとしたこと。それまでは、地域の文化センターで薄謝を得ながら講座をひらいて、薄謝を得るというのが関の山だったという
- 多くの若者が文化伝承に携わることができるようになったこと。とにかく、シアターの演者の様子をみて、素晴らしい!と思わない人はいないと思う。個人的には、現代を生きる人たちが実名で自らの仕事の様子を展示にしていて(俳優の宇梶さんをはじめ、フェアトレードビジネスに従事する方など、僕らの身のまわりで一緒に仕事していることが容易に想像がつく展示)、相当に意欲的な展示だと思った
- いかにしてアイヌ民族が迫害され、暮らしを追われてきたのか。そこから現状をどのように取り戻してきたのかに関する展示が一切ないこと
といったことも見えてくる。
国立の民族博物館として、雄弁に語っているものの裏側には、語られないものがあるということ。
全体として歓迎すべき大きな一歩であることは間違いない一方で、なにを語り継ぐべきなのか。
土地を奪われ、文化を失おうとしている地に暮らす一人として、就職差別などアイヌ民族が直面してきた困難は、(アイヌの方が直面してきた困難は原子力被災地のそれとは較ぶべくもないのは理解した上で、)参考になることがあると感じる。
彼らが、民族のことばや文化、歴史を残すためにどのように戦ってきたのか。結果手に入れたものの中に、なにが収められ、なにが収められなかったのか。
翻って、僕らの暮らす地域にも建っている伝承館。冒頭に赤べこのキャラクターが出てくるあたりからして、原発が建っている土地に当事者性を持っている人が企画したのではないんだなーということがわかる。(アイヌ民族博物館のメインビジュアルに熊の木彫りを登場させたら、怒られるでしょう……アイヌはリアルな熊の像はつくらないので)
これから長く続く道のりの中で、権力の側はなにかを残そうとする。一方で、現地で暮らす僕らはなにを残すべきなのか。考えないといけないですね。